企業や組織において「心理的安全性」が注目されて久しくなり、この言葉を耳にしたことがある方も多いと思います。「心理的安全性」は、ハーバード大学のエドモンドソン教授が提唱した概念で、『チームの中で自分の考えや気持ちを安心して表現できる状態』を指します。そして、『ひとりのメンバーが経験して得た知識や理解を、全員で学習して共有して、高いパフォーマンスにつなげることを可能にする集団状況』であり、チームの成長に不可欠であるという文脈で語られます。

ここで大事なのは、「集団心理」の視点です。人は、一人でいるときよりも、集団の中では“同調”や“役割”の影響を受けます。社会心理学の有名な実験では、周囲が明らかに誤った答えを出していても、多くの人がそれに合わせてしまうという結果が示されています。

「これを言ったらどう思われるだろう」「空気を乱すかもしれない」と感じて、言いたいことを飲み込んだ経験は誰にでもあると思います。私たちは無意識のうちに、周囲の反応を予測しながら自分の言動を調整しています。

私は職業柄、一対一で人と向き合う機会が多いのですが、グループセラピーや患者さんの会などでファシリテーターとしてかかわることもあります。グループでは、“同調”によって特有の集団圧が生まれ、個々の発言や流れに影響する場面にしばしば出会います。ときに、集団圧が自由な意見交換を難しくする一方で、逆にその“同調”がポジティブに働き、大きな進展が生じることも少なくありません。上司と部下という関係とは違いますが、ファシリテーターがもともと関係を築いているメンバーがグループにいると、対話も活発になることを感じます。そうした経験からも、「上司と部下との信頼関係」が心理的安全性を支える大きな要素であることが分かります。


先日、心理的安全性を重視していらっしゃるある上司の相談を受けました。異動により新しいグループの責任者となったその方は、着任後、メンバーとの関係づくりに力を注いでこられたそうです。1対1の対話を頻繁に行い、自身の失敗談も隠さず共有することで、オープンで安心感のある雰囲気を育てていました。ところが、セオリーに沿って誠実に取り組んでいるにもかかわらず、グループの中で経歴の長いメンバーだけがなかなか心を開いてくれず、グループの話し合いがどうしてもぎこちない雰囲気になってしまう・・・、とのことでした。

その上司は、私との面談の中で試行錯誤し、思い切ってそのメンバーと少し距離を取ってみることにしました。すると、不思議なことに、かえってコミュニケーションが良くなったというのです。安心感や信頼感を得るためのちょうどよい距離は、人によって異なります。推測の域を出ませんが、もしかすると、その方は経歴が長い分、自分のテリトリーを守りたいと感じて警戒していたのかもしれません。そして、上司が一歩引いたことで、逆に「尊重されている」と感じ、上司への警戒心が解かれた結果、信頼関係が築かれていったのではないでしょうか。


「心理的安全性が大切」と頭では分かっていても、実際にそれを形にするのは簡単ではありません。なによりも、信頼関係は、一朝一夕で築けるものではありません。基本の理論や方法は大切ですが、思うようにいかないときには、いったん立ち止まって、セオリーではなく、個々の人をしっかりと見つめることが大切なのかもしれません。

執筆者:木ノ内(小澤)満玲(公認心理師・臨床心理士)


参考文献:
長岡健(2025).「組織の力となる対話とは~脱手段化した視点から対話導入をめぐる組織スケープを描く~」.連合総研レポートDIO.38(10),21-24.
山口裕幸(2025).「働き方の創造的変革を実現するチー ム・プロセスとコミュニケーション」.日本労働研究雑誌.No.781,4-13.
国分さやか(2021).「職場における心理的安全性の要因についての考察」.立教ビジネスデザイン研究 .18, 65-75.